「馬鈴薯の芽」の実験活動は、自らの活動がどのような効果をもたらすのかあるいは何ももたらさないのかを見極め、次の活動の計画に生かしていくことにある。そのため、どのような失敗があったのかを記述していくことも重要になる。また、講師兼スタッフの中山康雄は哲学者であることを目指しており、それが「馬鈴薯の芽」での活動とどのように両立するのかも模索していかなければならない。そのため、日々の活動と反省をつづっていくことにする。
2024年11月19日 富の公正な配分
ランチとピアノ演奏というイベントを行うと複数の人の間での売り上げの配分という問題が生じる。搾取を排除し公正な配分を目指しているが、手探りで進んでいる状態である。特に、イベントに携わっている人たちが他に主要な収入源を持っているためこのようなイベントが可能になっていると思う。ハンナ・アレントは仕事と労働を区別したが、イベントでの活動は自由人が活動することで成立する仕事ということになると思う。無報酬のボランティアの方たちにもお世話になっているが、こちらから頼んだわけではなく、自発的に手伝ってもらっている形になっている。シェフの笠井さんもトータルでは赤字ではないかと思っているが、こちらも赤字で活動しているので、これをどうしたら持続可能な形に持っていくかということが課題ではあるが、何とかやれてはいけている。重要なことは、このイベントに携わることで各自が個人的に充足できる点があるということである。それが各自発見できる限り、この活動は続けていけるように思う。僕の場合には、この活動によって新たに見えてくるものもあると期待している。
2024年10月14日 ジョン・サールの社会存在論の限界
ジョン・サールは社会存在論(social ontology)を提唱し、貨幣や制度的事実などの存在論的分析を行ってきた。この研究に対し、社会学者たちなどからエミール・デュルケムなどの社会学の基礎づけのアプローチなどとどこが違うのかという批判があった。これに対し、サールは自説を繰り返すだけでデュルケム社会学と真剣に向き合ってこなかった。実際には、デュルケムは社会分業の考えなどで社会存在論にとっても参考になる独自の考察を展開している。またマルクスなどの理論家は、貨幣の存在論的身分だけでなく、貨幣が社会組織の構造転換においてはたす役割などの研究を深めている。社会存在論の研究者たちは、社会学における基礎研究を自らの立場から再検討する必要があるだろう。
2024年10月10日 夏目漱石の人間観察力
夏目漱石が人間観察と人間描写に優れていることは間違いない。『坊ちゃん』などでも登場人物は的確に描かれており、日本社会の縮図を見るようである。教頭の赤シャツなどの要領のいい人間や野だいこのように上司にとりいろうとする人間など、これらの人間関係は現代の会社などの組織においてもなお見かけそうなものである。『こころ』においても、漱石の鋭い人間観察が表現されている。その一例は、先生が主人公の書生に対して語る次の発言にもよくでている。「(…)君は今、君の親戚なぞの中に、これといって、悪い人間はいないようだと云いましたね。然し悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざとうい間際に、急に悪人に変るのだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないんです」(上、第二十八節)。普通の人間があるときに(自分の本性に従って)他人を傷つけることを平気でするという現象を経験することが多くの人にあるだろう。そしてときに、自分の本性に従って他人を傷つけるその人が自分だったりするのである。
2024年10月8日 役割と義務
ルース・ベネディクトの『菊と刀』の第六章で二種類の義務について論じられる。それは、「忠」と「孝」である。忠は天皇に対する義務であり、孝は親に対する義務である。このように、日本の伝統的規範体系は役割に相対化されている。忠は臣民としての義務であり、孝は子としての義務である。倫理学では人間としての義務が問題となるが、伝統的日本の社会ではこのような普遍化がなされず、人は常に特定の役割のもとで他人と自分を評価してきた。自分が何をなすべきかを自分がどのような役割や地位にあるかを前提に考える傾向を日本人は持ってきた。日本人に対して個人主義の欠如が指摘されるのも、このことと関連しているように思われる。
2024年10月4日 共によくあるということ
ある組織Gがよくあるということは、Gのいかなる下部組織(そして、そのいかなる構成員)もよくあるということを含意する。だから、<共によくある>ということは、<最大多数の最大幸福>という考えとは大きく異なっている。というのも、<最大多数の最大幸福>というのは組織G中の大多数の個人がよくあればG中の少数の個人が困難な状態にあってもかまわないということだからである。生活保護のような憲法に記された人間の権利は、<共によくある>ことの理念から生まれるものであり、<最大多数の最大幸福>という理念のもとでは無視されてしまう原理である。
2024年9月27日 活動の副作用
ある活動がある目的を達成するためになされるとき、思わぬ副作用をもたらすことがある。生産や移動にともなう環境破壊はこの副作用に属する。手段と目的関係のみで活動をとらえることで、この副作用が見落とされることになる。手段の選択においては、結論にたどりつくために閉世界仮説(Closed World Assumption)が暗に受け入れられている場合が多い。生産活動を開始した後に、その副作用が明らかになり、この副作用を含めたうえで新しい活動選択が迫られることになる。人類は、歴史の中でこのようなことを繰り返してきたように思われる。注意したいことは、社会科学が扱う現象も自然科学が扱う現象を人間活動に注意を向けた立場から再解釈して記述されたものだということである。
2024年9月15日 交換市場における人間の非人間化
ハンナ・アレントは、マルクスが指摘した自己疎外の現象を、消費だけが存在しているような労働社会における人間の非人間化の現象として描きなおしている。「交換市場で出会う人びとは、なによりもまず人格としてではなく、生産物の生産者として出会う」(p. 335)。私たちにとって日常化している人との関りが消費社会特有の問題であると、アレントは指摘する。このような社会で人びとが自分自身を示すことができるのは、「家族との私生活の中か、友人との親密な関係の中だけである」(p. 336)。
2024年9月12日 リアリティとは何か?
次の引用にあるように、ハンナ・アレントは「リアリティ」という概念を説明するにあたってアリストテレスの規定を基盤にしているように思われる。「人間にとって世界のリアリティは、他人の存在によって、つまり他人の存在が世界に現れることによって保証される。「なぜならば万人に現れているもの、これをわれわれは存在と呼ぶからである」」(p. 321、文中の引用は『ニコマコス倫理学』1172b36ffからのものである)。これに対し僕は、ある社会組織や規範体系のリアリティは、人々がそれらを前提としたゲームに参入することによって生まれると考えている。貨幣の使用や会社の役職とともに課せられる義務も同様の形で説明できる。
2024年9月7日 公的領域のイメージ
ハンナ・アレントが考える公的領域がどのようなものかについて、自分が解釈した範囲で、簡単に描写したい。公的領域というのは、図書館のようなものであると思う。図書館には、いろいろな著者のいろいろな本が並んでいて訪問者はそれらに自由にアクセスできる。本は、著者が私的領域で考えたことを物化し公共化することで生まれた物である。著者の過去の思索もそれが物化されているから、人々は読むことができ、その著者の思索に触れることができる。図書館にはさまざまな本がおかれ、いくつかの本は同一のテーマについて互いに対立する主張を展開している。つまり、図書館は多様な思索を提供し、読者はそれらの中から自分に興味のあるものを選択し読んでいく。著者の思索は、物化され図書館などに保管されることで、後世にまで伝承される。そして現在では、ウェブも図書館と同様の機能をはたし、ひとつの公共圏を形成している。このように、公的領域は文化の伝承において決定的役割をはたしている。
2024年9月4日 講演会の開催
11月から月1回のペースで講演会を開催したい。講師は僕で、次のようなテーマを予定している。ただし、準備を進めていく段階でテーマの変更もありうる。
11月3日(日)「正岡子規の生と文学活動」:子規の晩年の活動全般とその後の日本文化への影響について議論したい。もとになっているのは、2019年11月9日の浜松文芸館での講演である。
12月「『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)における罪の許し」:『君たちはどう生きるか』に描かれる物語の中に主人公コペル君の勇気のなさを示すような失敗談がある。コペル君の罪の意識とまわりの人たちの受け入れについて、『こころ』(夏目漱石)に描かれる先生の罪の意識も参考にしながら考察したい。
2025年1月「『菊と刀』(ルース・ベネディクト)に現れる欧米文化と日本文化」:『菊と刀』を読んで感じることは、プロテスタントの呪縛である。ベネディクト自身がキリスト教文化の中で苦しんでいるように思われる。日本文化の記述よりも、記述の背後に隠されているキリスト教的倫理観と欧米文化の関係について考察したい。
2024年9月1日 ガダマーの「地平融合」とアレントの「公的領域」
ガダマーがいう地平融合では、あくまで、作者と読者の理解地平が問題となっている。つまりここでは、作品を読むことにおいて読者の理解地平が作者の理解地平と接触し、新たな地平が築かれていくことが描写されている。これは、アレントがいう公的領域とは異なっている。個人の思索は、講義や執筆を通して複数の人に影響を与え、(共同体の中で)この思索のリアリティが発生する。書き留められた思索は、著作として出版され、物化され、図書館の中で保存され、後世の人たちによっても読まれていく。このようなとき、物化を含んだ公共性が問題となっている。プラトンの思索は、まさに、そのようにして現代に伝わってきたのである。プラトンの思索は、アカデメイアで著作として保存され、図書館の中で受け継がれてきた。そして、アリストテレスの著作は、一時、ヨーロッパ文化から消え去ろうとした時期もあったが、アラビア語から翻訳されたりしてよみがえり、中世には多くの卓越したアリストテレス哲学研究者が現れた。このように、物体上に形づくられた形態を通しての思索の保存も文化の伝承には大きな意味を持ち、そのためには公的機関もしばしば関わることとなる。
2024年8月27日 ハンナ・アレントの「公的領域」
ハンナ・アレントの『人間の条件』を読み始めた(この日記での引用はすべて、ちくま学芸文庫の志水速雄の訳による)。アレントによれば、「公的(public)」という用語には二つの意味がある。その第一の意味によれば、「公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限りもっとも広く公示されるということを意味する」(p. 75)。そしてこのような公的現れが、「リアリティを形成する」(p. 75)この主張は、分析哲学の社会存在論においても、ほぼ同様に考えられていると言っていいだろう。 アレントは、この考察を文学作品や哲学的著作にも適用している。アレントによれば、魂の情熱や深い思索も公的な現われに適合するように一つの形に転形されない限りは、「不確かで、影のような類の存在にすぎない」(p. 75)。このような転形のうちで最も一般的なものは、「個人的経験を芸術に転換する際に起こる」(p. 75)。このようなアレントの考察は芸術の本質的部分を的確に表現しているように、僕には思われる。私的領域と公的領域は単に別の領域として並列的に存在しているのではない。私的領域で体験されたことのリアリティは、公的領域で与えられるのである。
2024年8月22日 身分と行為選択
現代では、学業や就職に関する選択が原則的に可能である。もちろん日本で希望の大学に行くためには入学試験に受からなければならないが、入試に挑戦することは許されている。これに対し、江戸時代の武士・百姓・町人などの身分の場合、この選択の余地が個人にほとんど残されていない。つまり、身分の選択が個人には禁止されている。これが、江戸時代と現代の日本の大きな違いではないだろうか。結婚や就職など、現代では、人は多くの場面で自らの選択に従がって自分の人生を切り開いていく。特にいわゆる民主主義的国家では、生きることに関する選択の自由を国民に保障することが重視されている。このことを僕が提案している動的BDO論理学の用語で表現すると、民主主義的国家では禁止空間が小さく許容空間が大きいということになる。
2024年8月21日 身分制度と役職・役割
丸山真男は『日本の思想』(1961/2014)IV 「「である」ことと「する」こと」の章で、「である」ことの例として徳川時代の武士の例を引いて次のように述べている。「人々のふるまい方も交わり方もここでは彼が何であるかということから、いわば自然に「流れ出て」来ます。武士は武士らしく、町人は町人にふさわしくというのが、そこでの基本的なモラルであります。「権利のための闘争」(イエーリング)どころか、各人がそれぞれ指定された「分」に安んずることが、こうした社会の秩序維持にとって生命的な要求になっております」(p. 175f)。
丸山に反して、僕は身分制度と役割は論理的には同じような特徴づけができると思っている。論文「Games and Social Reality」(2022)の第3.3節で、許容空間・義務空間・禁止空間が定義されている。許容空間・義務空間・禁止空間というのは、それぞれ行為タイプの集合である。これを用いると、「規範体系Nにおいて役割Rを担う人物Aが時点tで社会組織Gで持っている許容空間」などが指定できる。ここで、許容空間(武士)を「江戸時代の規範体系において任意の武士が時点tで日本で持っている許容空間」と定義し、許容空間(百姓)や許容空間(町人)も同様の仕方で定義するとする。すると身分の違いは、許容空間(武士)と許容空間(百姓)と許容空間(町人)が異なる要素を多く持つことで表現できる。 そして、江戸時代の規範体系には婚姻への制約などの身分制度を維持するための規定が盛り込まれている。しかし武士であっても、「島津藩の家老」などの役職がある。そしてこの役職に関しても、許容空間(島津藩の家老)は「島津藩の規範体系において家老が時点tで島津藩で持っている許容空間」などのように規定できる。つまり、身分制度と役割の間に本質的違いはなく、身分制度に現れる身分は一生その役割を担い続けるという特徴を持つだけである。
2024年8月19日 タコツボ型の文化とガラパゴス現象
丸山真男が『日本の思想』(1961/2014)で用いた「タコツボ型」という日本文化の類型化は、「ガラパゴス現象」という日本における製品開発文化の現在の特徴づけと通じるところがある。ここでは、丸山によるタコツボ型文化・社会の描写をいくつか紹介しておく。
ヨーロッパ文化と日本文化の違いについて、丸山は次のように書いている。「ただ日本の特殊性はどこにあるかというと、ヨーロッパですとこういう機能集団の多元的な分化が起こっても、他方においてはそれと別のダイメンジョン、それと別の次元で人間をつなぐ伝統的な集団や組織というものがございます。たとえば教会、あるいはクラブとかサロンとかいったものが伝統的に大きな力をもっていて、これが異なった機能に従事する人々を横断的に結びつけ、その間のコミュニケーションの通路になっているわけです。ところが日本では教会あるいはサロンといったような役割をするものが乏しく、したがって民間の自主的なコミュニケーションがはなはだ乏しい」(p. 153)。
僕のドイツでの個人的体験から言うと、ドイツ社会ではよく知人を呼んで自宅でパーティーが行われる。誕生日パーティー、就職記念パーティーなどである。これは、高校生などでも大人でも行われる。パーティーに参加する人は、何かおみやげを持っていくことが常であり、自分がパーティーをするときには以前に自分を招待してくれた人たちを招待し返すことが礼儀となっている(ただ僕の場合、パーティーを開くことが苦手であり、もっぱらパーティーに参加するだけで許してもらっていた)。また、ドイツ人はよく個人的なことを人と相談することがあり、このとき相談された人はその問題を真剣にともに考え、自分が考えることを率直に述べることが常である。日本で言うような「世間体」というようなものは、ドイツでは問題にされない。というのも、世間体に気を配っている限り問題解決の糸口を見つけられないからである。この意味で、〈世間体に配慮する〉というのは、明らかに、非合理的振る舞いである。
最後に、タコツボ化とガラパゴス化が重なる部分を引用しておく。「ところでこういうふうに各組織体がみんなタコツボ化しますと、その組織体は、それに属するメンバーというものを、まるごと飲み込んでしまうわけであります。メンバーをまるがかえにしてしまうから、従ってその相互の間に共通の判断基準というものが自主的に、つまり下から形成されるチャンスはおのずから甚だ乏しくなる。政治や経済の組織だけでなく芸術の分野でも、文壇とか楽壇とか画壇とかいう「壇」、またはその中の何々サークルとか何々会とかいうものが不断にタコツボ化の傾向をもちますから、そこに属している仲間だけで適用する言葉なりイメージなりがおのずから発生するということになる」(p. 154)。
2024年8月17日 ハイデガーの世界内存在の洞察と限界
マルティン・ハイデガーは『存在と時間』(1927)において、人間が世界の内にすでに存在しているという事実を認識に優先させる立場をとり、近代哲学の認識論中心の姿勢を逆転させた。ハイデガーによれば、人間は生きることにおいて物に対して道具という仕方で関わり続けており、このことが物体を目の前に立てて認識することを可能にしている。これが、ハイデガーの存在論優位の洞察であり、人間を世界の特定の時空に位置づけ、それによってはじめて認識が可能になることを示唆した。これは、デカルトが精神を実体とし、認識論を基盤にした哲学を打ち立てたことへの批判となっている。こうしてハイデガーは、認識論中心の哲学に対抗する新たな哲学の立場を提示することができた。フッサールの現象学ではまだ認識論を重視する部分があり、ハイデガーの『存在と時間』によってはじめて、認識論に対する存在論の優位が提示される。これが、ハイデガーの洞察である。僕もこの〈認識論に対する存在論の優位〉を主張しており、拙著『言語哲学から形而上学へ』(2019)でもこの立場を主張している。
ハイデガー哲学の限界は、この道具が他の人たちによって作られたものであり、そこに道具作成の伝承・創意の歴史が隠されていることに言及していないことにある。ある人が存在している世界には他の人も存在しているあるいは存在していたのであり、その人たちの活動が今自分のいる環境の一部を作り上げている。このような歴史・社会的視点がハイデガーには欠けている。この部分を補うようハイデガー哲学の一部を発展的な形で修正したのがガダマーであり、それは彼の主著『真理と方法』(1960)で描かれている。
また、道具を使用する行為主体は、道具と一体となった拡張行為主体(extended agent)となることを僕は提案している。その最も厳密な定式化は論文「A Four-dimensionalist Theory of Actions and Agents」(2023)の中でなされている。ハンマーで釘を打つ太郎は、〈太郎+ハンマー〉という拡張行為主体として釘を打っており、太郎個人はその部分行為であるハンマーを動かす行為をなしているというのが僕の分析である。
2024年8月16日 ササラ型とタコツボ型 ― 丸山真男による社会・文化の分類
丸山真男は、『日本の思想』(岩波新書、1961/2014、pp. 143-161)で、社会と文化を特徴づける類型としてササラ型とタコツボ型を提唱し、ヨーロッパの文化はササラ型であり日本の文化はタコツボ型であると論じている。ササラ型というのはひとつの根本が複数の細かい先に分岐している型であり、タコツボ型というのは孤立したタコツボがいくつも並列している型である。ヨーロッパでは、共通の根から専門化が進んでいったが、個別科学の根本は共通のまま残っている。それが日本では、「ササラの上の端の方の個別化された形態が日本に移植され、それが大学などの学部や科の分類となった」(p. 147)ため、タコツボ型の研究スタイルが定着した。
僕自身は、日本で理学部を卒業した後、ドイツで哲学を学部の一年生からはじめて大学院博士課程で博士論文を提出し学業を修了した。またドイツでは、哲学の主専攻のほかにドイツ文学・ドイツ言語学と芸術史を副専攻としてとっていた。ドイツでは、比較的自由にいろいろな専門の授業に参加して単位をとることもできるので、僕は数学基礎論や情報工学などの授業も受講し単位をとっていた。そのためかなり総合的な形で学問と関わることになった。僕が日本に帰って大学教員となってからは、哲学とその関連分野で専門的研究も行ったが、全般的には僕の研究はササラ型のものだったと思っている。このササラ型の研究スタイルをこれからも続けていきたい。
2024年8月15日 近代哲学の虚構 ― デカルトとヘーゲルの場合
デカルト哲学の基盤には、精神と物体が相異なる実体であるとする二元論がある。この二元論では、精神は物体から独立の実体であるとされ、その本質は思考にあるとされる。これに対し、脳科学などの進展もあり、現在支配的な立場は物的一元論である。物的一元論から見るなら、精神という実体はひとつの虚構である。
ドイツ観念論の頂点に立つヘーゲルの場合には、デカルト的二元論は観念論の立場から克服される。ヘーゲル哲学では、本質的なのは精神(特に、絶対精神)であり、物質もともなって形成される現実の歴史は精神の発展が現象して生まれるものと捉えられる。心的なものの実体性を疑問視する物的一元論から見るなら、ヘーゲル哲学も虚構の上に建てられた幻の城である。
現代哲学は、これら近代哲学の基盤を疑問視することから出発した。カール・マルクスはヘーゲルの弁証法を反転させ、物質的経済活動が精神活動の基盤となっていると主張した。そしてニーチェは、道徳の起源が精神的秩序にではなく、身体的拷問が心に植えつけた傾向性にあると主張した。どちらの説も、物的一元論と整合的なものである。マルクスとニーチェの説は、どちらも、吟味を必要とするものである。しかしそれらが、近代哲学への根本的批判を提示していることは間違いない。
2024年8月13日 個人の歴史・社会性
人は、特定の信念と規範が一般に受け入れられた集団の中で育っていく。子どもは一定期間、自分が属する集団の信念と規範をおおむね受け入れ、それが彼の思考と行動の最初の基盤となる。あるいは、その集団の信念と規範に一定の反発を示すことで、自分の思考と行動規範を作り上げていく。この歴史内存在的人間の在り方はH・G・ガダマーなどによって唱えられたが、その基本的考えを形式的に厳密化することは、僕がベルリン自由大学での修士論文の一部で展開して以来、ずっと取り組んできたテーマの一つである。拙著『パラダイム論を超えて』がこの考察の最終的到達点を示している。
2024年8月12日 本屋 Bread & Roses (松戸市常盤平)
きのう、本屋 Bread & Roses へ行った。ここは、人生・社会・思想などに関連する本を中心にした本屋でセルフサービスのミニカフェをやっており、著者を招待してのイベントなどを行っているということである。このような場所が、こんな近くにあるとは知らなかった。また、「馬鈴薯の芽」では実現していない読書会やドークイベントを実践しているので、これから学ぶこともあると思う。自分が少し動き出して見て、いろいろな活動をしている人が近くにいることを知らされる日々である。
2024年8月11日 認識の歴史性
僕が考える認識論は、『パラダイム論を超えて』(2016)で描いておいた。研究者は、ある特定の社会に生まれ、そこで伝承された知の体系を基盤にしながら、時にそれをよりよい体系に変更することでより強固な理論を築き上げていく。そして、そのような理論は、他の研究者に影響を与え、受け継がれていく。だから、どのような人の認識も、社会の中で生まれたものであり、後に覆される可能性を残したものである。
このような、歴史的認識論の捉え方は、伝統的なものではない。プラトンは、イデア界という真なる領域が存在すると信じ、そこに何らかの通路を見つけることで真なることを発見できると考えた。また、デカルトなどの近代の哲学者の多くが真なるものを保証する神が存在すると考え、精神の考える能力によって真なるものへの通路が開かれると考えた。人間の思考能力に対するこのような楽観的見定めに対して批判を加えたのが、カントの批判哲学である。カントは、それまで試みられていた神の存在証明は認識可能性の外側にあることを示そうとした。カントにとって、認識は表象を受け取る能力としての感性とカテゴリー(純粋悟性概念)を表象に適用する能力としての悟性を基盤にして認識が成立する。この「カテゴリー」を「概念枠」として捉えると、カントは固定的で先験的な概念枠を基盤にして認識が成立すると考えたことになる。僕は、この概念枠を歴史的に研究者集団に共有され伝承されたものとして解釈することによって、カントの考えを『パラダイム論を超えて』では歴史に相対化し、それをトーマス・クーンのパラダイム論と結びつけた。ただ、僕が提案した理論は、クーンのものよりもずっと精緻なものである。また、興味のある方は、拙著『科学哲学』(ブックガイドシリーズ 基本の30冊)(2010)なども参考にしていただきたい。
2024年8月10日 社会存在論と政治哲学
社会存在論は、社会組織がなぜ存続できるかという存続条件を探究するという課題を持つ。ところで、存続条件を充たす社会組織にはいくつかのタイプが存在する。官僚化により分業が徹底した社会組織、独裁的手段により命令の遵守が強制された社会組織、共によく生きることの実現が目指される社会組織などである。共によく生きることを目指すような社会組織の場合、社会組織の存続条件を充たすような組織の構造化の実現のほかに、すべての(あるいはほとんどの)構成員たちの実存的充足が充たされるという条件が加わり、その実現はより困難なものとなる。共によく生きるような社会組織がどのように実現できるかを考察するためには、社会存在論も含めた政治哲学的考察が必要になるであろう。
2024年8月8日 武者小路実篤の「新しき村」
白樺派は、1910年(明治43年)に創刊された文芸同人誌『白樺』の発行を中心に展開された文芸思潮のひとつである。白樺派の同人には、武者小路実篤や志賀直哉や有島武郎などの作家たちとともに柳宗悦などの美術家たちが属していた。このような活動を続ける中で、武者小路実篤とその同志たちは1918年(大正7年)に宮崎県児湯郡木城町に新しき村を開村する。開村の精神には、「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする」という項がある。「全世界」を視野に入れ、自我の成長によって理想郷の構築に向かおうとするところにユートピア的な面が強くみられる。というのも、社会組織の存続や構成員たちの生存維持の条件が充たされるように行動することも要求されるからである。ただ、言葉で理想を述べるだけでなく、その理想を実現するための生活を実践しようとした実験には一定の意味があるように思う。ローカルな場での〈共によく生きる〉ことの実践をめざすような縮小された目的設定で、この活動は(細々と)現在にまで受け継がれている(「新しき村」のHP参照)。
2024年8月7日 社会科学の位置づけ
社会科学と自然科学がどのように関係するのかという問題がある。この問題については、物的一元論をとるのか、物体とは独立の精神が存在するというデカルト的二元論をとるかで見解は異なってくる。現代的観点からは、物的一元論をとり心的状態は物的状態に存在論的に依存していると考えるのがふつうである。つまり、ある心的状態にあるということは脳を中心とした身体の活動状態に依存して成立していると考えるのである。すると、すべての人間の活動は存在論的には物的なものに依存して成立していることになる。ここから、社会科学の現象全ても存在論的には自然の状態に依存していることになる。しかし、このことは社会科学の現象記述が自然科学の記述から帰結することを意味しない。
各社会科学の分野は、現象をそれぞれの観点からそれぞれの概念枠組みに基づいて世界の中の現象を記述する。例えば、経済学と社会学の違いは、この観点とそれと関わる概念枠組みの違いから生じてくる。社会学だけが捉えうる特定の現象が世界の側に存在するわけではない。そうではなく、社会学は世界の中の現象を特定の社会学的観点から記述・整理しているのである。
環境問題について哲学的に議論するとき、この点を明確にしておくことが重要である。人々は、共有された信念と規範体系を基盤にして行動する。そして、この行動が身体運動をともなうため、物理的影響を世界に及ぼす。その物理的影響の中には生態系を破壊する原因になるようなものもある。あくまで人間は宇宙の中で活動しているのであり、宇宙の一部なのである。物的一元論をとれば明らかになるこのような考察が、社会学の基盤を規定する考察にこれまで抜け落ちていたという事実がある。だから、社会学そして社会科学の哲学的基盤を明らかにしていくという作業が、現在、必要になっている。
2024年8月6日 ヴェーバーとデュルケムのアプローチ
「活動と思索」で試みられるのは、考察の断片の集積としての「思索のアルバム」である。
僕が現在取り組んでいる問題の一つに、社会科学の基盤を哲学的に考察するという問題がある。特に、マックス・ヴェーバーとエミール・デュルケムの出発点をつなぐ作業を試みている。ヴェーバーは個人の社会的行為から出発し、デュルケムは社会的事実の存在仮説から出発する。このとき、どちらの出発点が正しいかと問うなら、問題を見誤ってしまう。中山が探究してきた部分全体論(mereology)からは、個人の行為も社会的事実もそれらが有効性を持っているなら、どちらもリアルなのである。時代的制約からヴェーバーの枠組みでは公式には個人の行為だけが分析されるが、そのような個人の行為の中には集団的行為の部分としてなされる行為もある(僕は、論文「A Four-dimensionalist Theory of Actions and Agents」(2023)で詳しい分析を展開している)。このとき、集団内の個人の行為は分業として把握できる(ここで、「社会的分業」はデュルケムが導入した社会学の基礎概念であることに注意したい)。つまり、社会学の基盤を記述するためには、ヴェーバーとデュルケムのどちらのアプローチも取り入れて新しい枠組みを構築することが必要だということである。
2024年8月5日 馬鈴薯の芽の活動の現状評価
「カフェ いこいの時空」に関しては、常連客の獲得には成功していない。しかし、経費をかけないでのらりくらりと営業しているため、何とか続いている。また、「思考塾 中山」の活動はまったく始まっていないが、読書会などに活路を見出したい。レンタルスペースに関しては、少し具体化ができるかもしれない動きがある。きのう、「思考塾 中山」の活動記述を新たなものに書き直してみた。